FBで私の気持ちにぴったりの投稿を見つけました。
オーストリアのGroßdietmannsと言う所に住んでいる陶芸作家、著作家、自営業を営んでいる方です。
コピペさせていただきます。
【あるものを食す生活】
6年前に森林地帯に住み始めてから、生活に必要なものは、だいたい地面から生えてくるものだということがよくわかった。別にあれこれ栽培しなくても、かなりのものは、自然に生えてくる。野生動物は、自然に生えてくるものを食べて生きているのだから、当たり前と言えば当たり前だ。自然には、ありとある生き物が食べていけるだけの食べ物がいつも十分にあるようになっている。人間だって、もともとはそうやって、自然に生えてくるものを食べて生きていたのだから。
庭に生えてくるものを生えさせていると、イラクサとかヘラオオバコとかタンポポとか、食べられる野草がちゃんと生えてくる。このあたりはベリーがよく育つ寒冷な気候なので、野生のラズベリー、ブラックベリー、ブルーベリーなどは、放っておけばいくらでも生えてくる。ローズヒップが実る野生のバラも、生い茂って困るくらいに生えてくる。森に行けば、ほとんど一年中いろいろなキノコが生えてくるし、ブナの実とかドングリ、ヘーゼルナッツもある。小川には、秋から春まで野生のクレソンが生えてくる。お茶になるものもあるし、薬になるものもあるし、入浴剤になるもの、洗剤になるもの、何でもある。
もともとプラごみの出ない生活をしようとしていたので、加工品はもうほとんど買っていなかったのだけれど、田舎暮らしを始めてから、本当に買わなくなった。だいたい自然に生えてくるもので間に合うことがわかったので、お茶やコーヒーさえ買わなくなった。季節のもので食べ切れない分をジャムにしたり酢漬けにしたり干したりして保存するから、瓶詰めも缶詰も買うことがない。
だから、スーパーで買い物することももうなくなった。それで、たまにスーパーに入ると、どうして昔はこんなものを買うのが面白かったのかと、不思議な気分になる。どれもこれも、プラスチック容器に入っていて味気がないし、保存するためのケミカルなものがいろいろ入っているし、野菜や果物だって、本当の自然の味がするものがほとんどない。だけど、スーパーで買い物していた頃は、そういうものを買うのが豊かなことのように思っていて、そういうものがおいしいと思っていたのだ。
もっとも、EUになる前のオーストリアは、食品の安全基準も厳しかったから、かなり信頼もできたし、地場産業のいい品物もたくさんあった。それがこの20年で次々と消え去っていき、得体の知れないものを押しつけられるようになっていったのだ。効率ばかりが問われて、質のいいものがなくなった。グローバル企業ばかりが生き残って、仕事の質を決められる人ももうほとんどいない。そんな状況の中で、まだ押しつけられた品物を買って、押しつけられた生活をするのは、もうすでに自由も人間としての尊厳も売り渡しているようにさえ思える。
しかし、このグローバル化し切った西側世界も、もう崩壊しようとしているようだ。あるいは、近いうちに90年代のロシアみたいなことになるのかもしれない。ここまで来たら、半端なところで終わらないで、とことん壊れてしまった方がいいのかもしれない。
ロシアでは、都会の人たちもダーチャという郊外の庭を持つ習慣があったから、90年代に経済が崩壊しても、何とか食べてはいけたらしい。自然の土さえあれば、生活に必要なものは、ほとんど生えてくるのだ。それに、畑を作る才覚があったら、食べるものに困らないくらいのものは、けっこう収穫できたりする。
しかし、食べていけるかどうかということよりも重要なのは、経済に頼らない生活にこそ、本当の豊かさと満足感があるということだ。生活に必要なものを何でもお金で買う生活は、食べるものも着るものも何もかも、自分で作り出すということをしない。現代では、そうした生き方が当たり前になっているけれど、生きるために自分の手でものを作り出すということこそは、実のところ生きる意味とか幸福感とかいうものであったりする。それは、自立して生きていけるという安心感であり、自然との繋がりの感覚でもあり、創造性でもあり、自由の感覚でもある。
現代ではそれがないから、すぐに生きる意味がわからなくなってしまうのだと思う。生きることそのものが、あてがわれたものに頼るような生活になってしまったら、いったい何のために生きているんだかわからなくなる。それで、特別なものを消費することだとか、ビジネスで成功することだとかに意味を探すことになる。
都会で暮らしていたときは、私もしょっちゅう生きる意味がわからなくなっていて、それが当たり前の状態でさえあった。田舎暮らしを始めてから、あれは自立した生活ではなかったからだということがよくわかった。生活するために必要なものを自分で見つけてくることこそは、生きる意味そのものだったのだ。野生の生き物は、それを自然にやっていて、だから精神的にも健康だ。自分で捕食すること。それこそが生きる充実感だった。
だから、それがなくなったら、生きることそのものの意味がわからなくなるのも無理はない。生きる意味なんていうものが、何か特別なことのように思えてくる。だけど、それはどの生き物も自然にやっていることをやっていないからにすぎなかった。
どんな土地にも、その土地に生えるもので生活するために必要なすべてのものを作り出す文化があった。それこそは民族文化というものであり、自立して創造的に生きるための知恵のすべてがあったのだ。経済のグローバル化は、まさにそれを破壊してしまったわけだ。自分で作らなくていいのが楽だとか、豊かだとか、そういうことを吹き込まれていった上、買った方が安いということになったら、皆自分で作るのをやめてしまった。それで、20年ほどの間に、ほとんどすべての伝統文化が消え去ってしまった。
自分で作らなくていいから楽だというのは、人を怠惰にして、依存させてしまう殺し文句だったのかもしれない。野生動物も、自分で捕食しなくていいように餌をやったら、たちまち怠惰になって、自分で捕食することを忘れてしまう。グローバル経済は、まさにそうした依存的な人間を量産してしまったわけだ。
しかし、自然の中には、いつも何かしら食べるものはある。今年はキノコが少ない年で、いつもなら10月には森でポルチーニやイグチ類がたくさん採れるのに、この秋はほとんど生えないままに、キノコの季節がすぎてしまった。それでも、カラカサタケやハナビラタケ、センボンイチメガサなど、いつも何かしらはあった。ポルチーニはほとんど採れなかったけれど、今はナラタケがたくさん生えてくる。これを追熟させた庭のトマトと一緒に炒めたりすると、すばらしい料理になる。ホコリタケの若いきれいなのが生えていたら、皮をむいて、ハンペンみたいにしてお汁に入れる。
いつも何かしらはあるから、そのときにあるものを料理して食べている。食糧をお金で買って生活していると、いつも何でもあるのが豊かだと思っているけれど、いつも何でもあるようなものは、本当においしいものではないし、幸福感がある暮らしでもない。そのときにだけあるものこそが、本当においしいものなのだ。だから、いつも何でも揃えておくのじゃなくて、そのときにあるものを探してきて、それを料理して食べる生活をしてみればいい。それこそは、生きる意味そのものだというような、至福の生活がすぐにできてしまうのがわかると思う。
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私も若い時には、都会に住んで、流行の服を着て、高いバッグを持って、バリバリ仕事して、おいしいレストランに行って、ちやほやされるのがしあわせだと思っていた。
でも今は違う!
自分の畑があるしあわせ。
そこで作物を育てられるしあわせ。
畑から新鮮な野菜をとってきて料理できるしあわせ。
水があり、空気があり、太陽の光が暖かい。
すべてに感謝です。
秋田弁チャンネル
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